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2014年08月05日

毒になりたがった彼女  珠樹政樹


〈綺麗な花には毒がある〉

 簡単に物語を始めたいのなら、必要なのはこんなものだ。人間を――別に全世界ってわけじゃなくていいけど、とりあえず周りの人達を――2等分すること。そして、その線引きについて考えてみること。問題が肌の色になれば戦争が勃発するし、貧富の差になれば格差論が書ける。
 更にひねりが欲しいなら、その区別をまた2等分、つまり全体を4等分してやればいい。私の世界なんてそれでだいたい充分で、明るい男子と明るい女子、暗い男子と暗い女子、その4種類の人間で中学生社会はできあがり。あえて付け加えるなら、良い奴か悪い奴かって情報くらいだろう。明るくて性格悪い男子と、暗いけど心の美しい女子の組み合わせなら、まあ、それなりのロマンスはできあがる。誰が勝ち組かなんて皆知っているんだから、登場人物のバリエは8パターンあればそれでよし、みたいな。


 何が言いたいかっていうと、人間の区別してやろうって力は摩擦だとか融和だとか離別だとか創生だとかを――つまり異なるAとBがある限り起こりうる全ての可能性を――生み出すのに必要不可欠だってこと。そしてそれ以上に、私の世界はめちゃくちゃくだらないことでできあがっていて、それではいおしまい、ってことだ。
 そんなことを理科のテストの残り時間に考えていると、何だか世間についてこんなに考えている女子中学生なんて私くらいだという気になってくる。こんな、頭に叩き込んだ方程式を必死になって引っ張り出してはがりがりエンピツの先を削ることじゃなくて、もっと大事なことで私は私を守らなきゃいけないのにって思えてくる。例えば想像すること、考えること。それが暗に、自分が暗くて心の美しくない方の女の子だって確認する作業であっても。
 よしそうだ、そういうことだ。チャイムが鳴るまであと5分。解答を諦めて目を閉じてからの時間は、考えごとに費やしたのであって無駄にはしていない……そんな私のいたいけな満足感を消し去ったのは、時計を確認した視線にふと移り込んだ彼女の背中だった。私のすぐ前の席で、手も動かさずにじっと問題用紙を見つめている彼女。

 彼女は私と一字違いの××××と呼ばれている。どちらも、間違っても自称したくはない類の呼び名だ。私の方はインケンだから、まだ自虐にでも使えるかもしれないが、彼女の方はそうではない。いや、中学生になっても××××がどういうことなのかわかっていないのは私だけかもしれないから、本当は××××も誰かを呼ぶのに軽く使っていい言葉なのかもしれない。どちらにしても大事なのは私や彼女の感情ではなくて、私たちが同級生の目に――微かにでも――おかしな呼称を使ってもいい存在として映っていたということだ。
 初めて彼女に話しかけられたのは割と最近のことで、一言目は「一字違いどうし、よろしく」だった。他に自己紹介の言葉もなかった。今日知り合ったと言えるような間柄でもクラスでの呼び名とか位置づけとか分かってしまうものなんだなと考えると少し恥ずかしかった。ずっと遠くにいた彼女が目の前に来てくれても、私にはどうすることもなかった。だって私たちは、窮屈な己の身を知っているものどうしでしかなかったのだ。
「髪、そんなに黒かったっけ」
 ずっとあなたのことを見ていた、なんて正直に言えるわけでもなく、色々をすっとばして出てきたのはそんな言葉だった。他人に簡単に踏み込まれることに、慣れているのかもしれない。あははっと笑って彼女は返した。
「ずっと染めていたから」
 それから私と彼女は一緒にいる。社会性を身につけさせるためか他人との行動を強いられる学校生活に、自分とよく似た存在は欠かせなくて、一緒にいるのは己の身を守るためとも言えるかもしれない。
 でも、彼女の存在はどう位置付ければいいんだろう。女子であるのは確かだけれど、明るいんだか暗いんだかはっきりしない彼女の区分はどうすれば。ただ分かっているのは、どちらにしても彼女がこの窮屈な世界の勝ち組に属してはいない、ということだった。

 かつて、彼女は私たちにとってとびきり特別な存在だった。私たちっていうのは、広くとれば今中学生をしている世代全員で、狭くとればうちのクラスの関係者のこと。特別っていうのは、彼女がテレビの向こうの世界にいた人間だってことに起因する。
 彼女は、数か月前まで平日夕方の教育番組で毎日顔と名前を見るような、スペシャルな女の子だった。私が覚えている限りでは、確か小学校に入った当時から彼女はテレビの中の人だったと思う。最初の最初から、人目を引く魅力のある子だった。彼女の母親は外国人――もちろん白人――で、その血は彼女を他の子より格段にキュートに、そして次第にビューティフルとかセクシーな感じに仕立て上げた。はっきりとした目鼻立ち、細くしなやかに伸びた手足、明るい茶色の癖毛を快活な風にポニーテールにした彼女は、どんなシーンでも魅力的に生き生きとしていた。テレビで見る同い年くらいの子どもは、天才子役と言われた子だとか、大人顔負けの特技がある子だとか、他にも色々いたけれど、それにしたって彼女は違っていた。ただテレビの世界で目立っていたからではない。笑って喋って歌って踊って、その四肢と美しさとパワーの全てで私を苦しめていたからだ。
 彼女が画面の中で笑えば笑うほど、そんなものとは縁遠い私みたいな子――平平凡凡な普通の子ってこと――は自分の惨めさを思い知った。番組の定番コーナー用のコスチューム――それも彼女用にカスタマイズされたとびきりかわいいものだ――も、スタジオを飛び出した彼女が身にまとう私服――パステルが基調なのにどこか強気の、バービー人形みたいな子ども用ブランド服、夏には大人のモデルみたいに気取った感じのビキニ、冬にはファーがアクセントになったシルエットの綺麗なコート姿――も、私の心を静かに嫌と言うほどかき乱した。どれだけ我儘を言ったって彼女みたいに毎日お嬢様のような服は着ることはできない、あんなに輝いた姿で誰かに笑いかけることなんて叶わない、だって私はあんなに美しくはないのだから。ただただそのことが、私を苦しめていた。可愛いと思う女の子は、友達になりたい子はと訊かれる度に、私は懸命に彼女の気配を消した。彼女を認めてしまえば、私の世界は終わりだった。
 
 そんな彼女が、私のすぐ目の前にいて、静かに唸りながらテストの問題を解いているというのは、とても信じられないことだった。美しい顔形はテレビから抜け出したそのままだったけれど、黒髪にダサい制服の着方で――それはおよそ制服を着こなそうという気の感じられない――教室に現れた彼女は、どこからどう見ても異質な存在だった。最初の頃は彼女を憧れの的として認めていた学校中の生徒たち、特に幸運にも同じ教室で彼女の一挙一動を見ることが許されたうちのクラスの生徒たちは、次第に彼女が自分たちとは違うものなのだということに気付いていった。彼女はテレビの中でこそ輝いていたものの、学校の中ではそんなものじゃなかった。いつも一人で行動して、周りのクラスメイト達が自分のファンであったという事実へのサービスは全く関係なく過ごしている。誰とも特別親しくならない代わりに、誰にも苗字にさんを付けて呼びかけ、唐突に用事を頼む、それは大人の姿だった。私たちが求めていた画面に映った姿は、お金とか大人とかの手が加わってできあがったもので、そしてそれは彼女のお仕事――子どもを相手にした番組とはいえ、立派な生産活動だ――によってもたらされたものだったのだ。
 それは期待を裏切られたショックから来たのかもしれない、もしくはただルールの分かっていない彼女に対するちょっとした制裁だったのかもしれない。どちらにしろ、彼女がこのくだらない世界のことを知らないのなら、それは知らないうちに始まり、終わったのだ。
 似た立場にある私が、彼女に同情することはできない。でも、私だって裏切られた一人だなんて言うこともできなかった。

「インケン」
 と初めて呼ばれたのは確か小学3年生の頃だったと思う。言ってきたのはクラスの男子だった、多分。あの子が当時インケンの意味を果たして理解していたのか私には分からないけれど、この4文字は当時の私達にとって相手を侮辱する最大限の言葉だった。私は他人にそのように呼ばれることが初めてだったのでショックを受けて二の句が継げなかった。私に無視されたと思った彼はもう一度私を「インケン」と詰った。私は今度こそ、はっきりと拒絶の目的を持って彼を無視した。すると彼は黙って帰ってしまった。私は安堵した。あまりの安心に、一度家に帰り、夕飯を食べ、眠り、起きて、また登校するまでずっと、私はその不幸を忘れていた。教室に入ってすぐに誰かが私を呼んだ。
「おはよう、インケン!」
 それは私に何の不快感も与えない、さわやかな響きだった。
 私の出身小学校の人間はほとんどがこの中学校に入学してくる。中学生になってクラスの勢力分布の影響力は急激に強くなった。人気者のグループが膨らんだり萎んだりした一方で、不登校の生徒が出てきたり自殺未遂を起こしたりしていた。でも私は、中学に入っても変わらずインケンのままだった。
 そんなことを私が思い出したのは、彼女が私と似たように××××という呼び名を与えられたからだった。でも彼女は、そんなことを気にするそぶりを全く見せなかった。それを気にするということ自体、彼女の理解の外にある事象だったのかもしれない。

 彼女について忘れられないことがある。あれは彼女が私のクラスに来てから数週間経った頃のお昼休みだった。

 だって 綺麗な花には毒があるって 
 あなた 知ってるでしょ
 恋は似てるの スイーツみたいな
 私の気持ちに それとも私に?
 
 校内放送で流れるのは彼女の声。普段の声よりずっと可愛らしく聞えるのは、これが、彼女が十二歳の時に収録されたものだからだ。誰がそんな悪趣味なことを思いついたのか、彼女のファーストシングルは毎日のように流れている。最初のころそれはアイドルを迎えるファンの歓迎を皆の心にもたらしたけれど、今や彼女の過去を徒に周知・再確認させるためのものでしかなかった。
「綺麗な花にあるのは棘だよね。毒じゃないじゃん」
 その時、たまたま彼女と一緒に席についていた私は、普通の会話をする中学生らしく、そんなことを会話のきっかけにした。彼女がその曲に思い入れも何もないということは、表情から明らかだった。
「うん。でも」
 確か、私たちは二人で何かの作業をしていたんだと思う。学級内で決まった勢力分布で弱い方の人間ができることは、いかに皆の前に出ずに生きるかということだったから、私はいつも裏方らしい仕事を進んで引き受けた。そうでもしないと休み時間はどうやって過ごせばいいんだろう。考えごとしながらノートに落書きするのは楽しいけれど、それを誰かに見られたらからかわれそうで、教室ではいつでも気を張っているしかなかった。
 目の前のこの子は暇な時、一人で何をしているんだろう。ここ数週間近くの席で互いに過ごしていたのに、私には想像もつかなかった。彼女はその時、私と一緒に、何かの係の仕事を引き受けていた。もしかして私を中学生生活の参考にと考えたのかと思ってみたが現実的ではなかった。
「棘は見れば分かるけどさ、毒なら食べるまでごまかせるよ」
 その時、彼女はそんなことを言った。女の子が年上の男の人をからかっているようなラブソングに似つかわしくない、おかしな言葉だった。
 私が反応するより先に、彼女は名前を呼ばれて席を立った。教室の入り口で、英語のALTが扉の枠に手をかけて笑っている。二十代後半の彼の母国は彼女の母親の母国と同じらしく、英語を不自由なく話せる彼女が彼にとってただの生徒ではないことは明らかだった。すぐ傍でおしゃべりをしていた女の子たちのグループが青年に駆け寄る姿を目で追う。クラス中の視線をものともせずに二人は二人にしか分からない言語で微笑み合う。それは見ていて何だか苦しくなるような光景だった。誰かの意地の悪い笑みがそれを助長する。
 私が私の呼び名であるインケンを、他人を呼ぶのに使うのはどうかと思いつつ私自身に多少は合っているなと思うように、彼女の呼び名だって、実は的を射たものかもしれない。そこまで考えて、私は思考を止めた。友達に対して考えるようなことではない。
 少しして戻って来た彼女は、何もなかったみたいな顔で席に着いた。何もなかったというと嘘かもしれない。ちょっとだけ清々しさというか、何かに夢中な女の子のうっとりとした瞳がそこにはあった。
「さっきの話だけど」
「さっきの?」
「毒の話」
 ああそれ、すでに忘れていたので私は一瞬あけて返事をした。
「食べたって飲んだって分からないうちに死んじゃうような、そんな毒になりたいよね。できれば沢山の人を巻き込めるような」
「毒じゃないでしょ。花の話じゃなかった?」
「女の子なら誰でも、花に例えられればいいけどね」
 机の上の造花――そうだ、文化祭が近くて、出し物の装飾用に使う薄紙で作ったちゃちな花を作っていたのだ――その一つを手にとって、例えでもなく私にとって花そのものだった彼女は言った。
「でも今の歌、そういう歌だったけど」
「当時はそういう路線で売ってたから。でも今は違う」
 少し悲しげに造花をぽいと投げ捨てて、彼女は目の前で薄紙を一枚取り上げてそれを綺麗に折り始めた。
「私は私のなりたいものになれる。普通の中学生ってそういうことでしょ」
 折って、折って、広げて、折って、また折って。それを繰り返して彼女の繊細な指先でできあがったのは、一羽の折り鶴だった。
「毒でも?」
「そう、毒でも」
 その瞬間、私は彼女の存在そのものが、一つの物語であることに気付いてしまった。私のささやかなもの思いや、クラスの面倒な人間関係や、そういったものでできている私の世界なんて、彼女はきっと気にも留めない。彼女のことを考えるほどに、私の胸は苦しくなった。それは、彼女が遠い場所の人であった時も、今も、変わらないのだ。着ている服が違っても、愛想のいい態度がとれなくても、周りと溶け込むことができなかったとしても、彼女は特別な人間なのだ。私は彼女に、幻滅さえできない。
 彼女の不思議な笑みと共に、生まれたばかりの折り鶴が机の上に着地した。皺の付きやすい柔らかな紙でできた鶴は、一様に似た形の造花の中で一つだけ異様に輝いていた。











筆者あとがき

 十年前の自分について書く、という今回の趣旨を担当に聞いてから、結構な時間をかけて当時の私自身のことを調べてみたのだが、どれだけ頑張ってみても私の姿はある一人の少女の存在にかき消されてしまうのだった。
 彼女は私にとって特別な友人だった。しかし、彼女について知っていることはあまりにも少ない。ただ彼女の異質さのみが、子ども時代を卒業して何年も経つ私の心をふと沸きたてることがある。
 同じクラスにいて、同じ時間を過ごしていた当時、私が彼女のことをどれだけ知っていたと言えるだろう。私が他人に――それも何か胸の内に抱えているとわかっている他人に――深く考えもせずに切り込んでいける人間だったら別かもしれない。
 彼女に訊いてみたいことはたくさんあった。
 例えば、テレビに出ていたときのこと。いつも着ていた綺麗な服のこと。仕事をするということ。誰かのために笑うということ。テレビの裏側にあるもの。誰かの作った台本に合わせて歌ったり踊ったりお芝居したりすること。自分自身の身体を商売に使うということ。撮影以外の彼女の生活のこと。どうして華やかな世界を捨てて、普通の中学生になったのかということさえ、私は知らない。
 それに、彼女自身のことだって。外国人の親を持つということ。普通の日本人とは違う生活をしているんだろうか。言葉に不自由しないんだろうか。外国に行ったことはあるのか。自分の外見が変わっていることを気にしたりしないんだろうか。
 そして、私が感じていた彼女という存在を、彼女自身がどう感じていたのか。
 大人になった今、私は物語を書くことを仕事としている。まだ十分に食べていけるほどの稼ぎではないから、副業としての執筆だけれど。私にとって物語とは何だったんだろうと思って昔のノートを見返す時、そこかしこに彼女の痕跡があって、あんなに私を惹きつけた人には大人になっても知り合えないと思っては悔しくなるのだ。
 今でも、彼女のなりたがった毒がどのようなものなのか、私には想像することができない。ただそれが、彼女の生に何かしらの希望の光を与えてくれるものであることを願ってやまない。
それでも、彼女が恋人に招かれて異国へ渡るという話を風のうわさに聞いた時、胸に甘い痛みを感じて、私は彼女の毒が私にも効いていることを感じずにはいられなかった。




〈少女と空腹〉

 空っぽの腹を抱えて、私は今日も口を開かない。
 私の身体はものを食べない。私の意志で食べないんじゃない。私の身体がそれを受けつけないんだ。食べ物の誘惑も、飢餓の欲求も、私の身体を縛らない。
 私はいつも夢想する。いつか、もっと軽くなりたい。体重なんて、私にはない。重力を超えたい。星の引力から放たれて、気の向くまま風に左右されたい。そんなことを夢想する。
 生まれたままに在る私を、私は成長させたくない。

「美咲ちゃん、この後一緒に買い物行かない?」
 塾を出てすぐに、セーラー服の少女が紅いタイを解きながら、こちらに駆けて来た。私は学校でも塾でも変わらない、丈の少し長いセーラー服を規定通りに着たままの姿で、彼女がこちらに来るのを待った。彼女は数日前に初めて話したばかりの、できたての友達だった。友は時間を糧に築くもの、付き合っておいた方がいいかなと思いつつも、この子とも仲良くなれる気がしなくて、私は間髪置かずに首を振った。
「ごめんね、土曜日はお兄ちゃんと帰らなきゃいけない決まりなの」
「ふうん、そうなんだ」
 彼女はすぐに残念そうな顔をした。誘いを断られるとは思ってもいなかったようで、口角が段々と下がっていく。私はあわてて口を開いた。
「これから行くの、駅前でしょ? 途中までなら、一緒に行ける」
「ほんとに?」
「うん。駅前のマックで待ち合わせだから、そこまでなら」

 雑踏を見下ろす窓際のテーブルカウンター席に、宇佐美君の姿はまだなかった。土曜夕方のファーストフード店はほとんど満員で、それでもいつもの席が空いていることに気付いた私は、武骨なスクールバッグを駆使して二人分の空席を確保することに成功した。
 十一月に入り、空気は若干の冬の色を乗せている。そんな表現が成り立つのか分からないけれど、冷たい色に触れる度、もうすぐ来る冬にちょっとだけ期待してもいい気分になった。別にサンタ・クロースが恋しいわけでもプレゼントが欲しいわけでもないけれど、それでも冬は、まだ子供の私の心を高める最高の何かを贈ってくれる気がする。眼下の人の群れだって、心なしか浮足立っているようだ。
 その人込みの中に、見知った茶色の頭を見つけて、私の手は止まった。髪を切ったみたい。側頭部が若干刈り上げられている。運動後だからか、ブレザーの制服をいい加減に着たのがばればれだ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、不良な姿。高校生としては、普通なのかもしれないけれど。そのまま吸い込まれるように自動ドアに入った彼は、数分してトレーを抱えて私のもとに現れた。
「ごめん、待たせた?」
「待ってない」
「そうか」
「宇佐美くん、その髪型、頭悪そうだよ」
「そうか? 頭悪いとかまんま俺じゃん」
 混じりけなしの笑顔で、宇佐美君は笑った。それもそうねと私も笑う。
 他の席の客がこちらをちらちらと見ている気がする。三つ編みおさげの女子中学生と不良っぽい高校生、どうも合わない組合せ。しかも四歳差だもの。ちょっとくらい不自然に見えてもしかたない。私は自分に言い聞かせる。
「みいちゃんは、相変わらずちっこいな。あ、髪は伸びてる」
「あ、ちょっと……」
 昔のように引っ張られるかと思われた三つ編みは、宇佐美くんの指先に優しく持ち上げられただけだった。私はあわてて目を逸らした。
「すげぇ長いな。背中の真ん中に届いてる」
「いいから、離して」
「はいはい」
 茶目っ気たっぷりに、宇佐美君はまた笑う。私は顔をそむけたまま、変に火照った顔が元に戻るのを待つしかなかった。こんなになるなんて、おかしい。宇佐美君に変だと気付かれないように、私はあわてて鞄を膝の上に移動させた。サンキュ、と言って彼は隣の席に腰を下ろした。少しだけ漂う、汗のにおい。制汗剤も使っているみたいだけど、すぐそばにある熱い身体とそのにおいは、不思議と不快じゃなかった。
 宇佐美君は私のお兄ちゃんの後輩だ。二人は小学校のサッカーチームで知り合い、家も近所だったために仲良くなって、幼い頃の私はそれに巻き込まれるように宇佐美君と出会った。それから何年も経つのに、宇佐美君とお兄ちゃんは仲がいい。どうやら宇佐美君にとって、うちのお兄ちゃんは学年が違っていても友達で、それ以上に憧れの先輩、逆らえない存在らしい。高校受験に向けて私が塾に通うようになると、帰りを心配したお兄ちゃんの言いつけで宇佐美君は私の子守り役になった。馬鹿なんじゃないの、と思うくらいに、宇佐美君はお兄ちゃんに忠実だ。ふさふさした尾とぴんと立った耳が見えそうだなんて思うくらい。
「また、そんなにたくさん食べるの」
 宇佐美君の持ってきたトレーにはハンバーガーが五六個と、思いつく限りのサイドメニュー、ドリンクが大きいサイズと小さいサイズ一つずつ、乗っていた。一人で持つには多すぎ、一人で食べるにも多すぎる。宇佐美君はそれを目の前で仕分けし始めた。
「俺は部活の後で腹減ってんの。はいこれ、みいちゃんの分」
 手渡された小さい方のドリンクはオレンジジュース。大きい方はコーラのようだ。なんだか子ども扱いをされたような気分になる。
「みいちゃんも塾の後で腹減ってるだろ。一個くらい食べたいのがあれば言えよ。あ、別に無理して食べなくてもいいからな」
「食べ物はいいよ……ジュース、ありがとう」
 私は大人しくカップを手に取る。外食で飲み物を頼むときはお兄ちゃんが勝手に決めちゃうから、いつもオレンジジュースしか飲まないし。
 私が塾から帰る土曜日は、宇佐美君にとって部活帰りにファストフード店に通える唯一の日だ。他の日は、部活がなくても地元のクラブの練習だとか、アルバイトだとか、色々あって忙しいようだ。一度友達と来店したときにハンバーガーに埋もれる宇佐美君と再会してから、毎週土曜日の夕方は、宇佐美君にとってハンバーガーを食べながら中学生の相手をする時間になってしまった。それも私みたいな、年齢も趣味も食べるペースも合わないのが相手。話も合うんだか合わないんだかって感じだけど、お兄ちゃんの彼女が言うには「男の人の方が精神的には年下」らしいから、私たちはきっとこれでどうにかなっているんだと思う。
「何か嫌いなものあったっけ? 食べられるのないか」
 ストローを口に銜えたきり他の食べ物に手を出さない私を見て、宇佐美君は探るように問うてきた。
「違うよ。食べたいと思わないだけ」
 いちにいさんし……トレイの上ではすでにいくつかの包みが開かれている。どれも、さあ今すぐに食べて下さいと言わんばかりに見た目や匂いで訴えかけてくる。宇佐美君は素早く手を合わせてそれらしい動作をした後、無造作に山の頂点からとったハンバーガーにかぶりついた。
「……腹いっぱいとか?」
「そういうわけじゃないけど」
 答えながらも、私はついつい宇佐美君の大きく開かれた口を見てしまう。部活の後だからって、食べてるのがファストフードだからって、そんなに勢いよく食べなくてもいいんじゃないの。いつもそう思うけれど、同じクラスの男子みたいに見ている方が恥ずかしくなるような行儀の悪さは感じられない。宇佐美君が私より年上だからかもしれないし、ちょっと馬鹿でもスポーツばかりしている、爽やかな人だからかもしれない。また思い出す格言は、なんだっけ。「男の人はそういうところがずるい。どこかに素敵なところがあれば女の人は見逃してくれるってことを無意識に知っている」だったかな。
「わかんねえな。食べるのって楽しいじゃん。美味いから食うってことでいいんじゃないの?」
 食べ物から少し口を離してこちらをちらっと見て、宇佐美君は不貞腐れたように言った。私はまたあわてて目を逸らした。
「それはそうだけど」
 宇佐美君の言うとおり。その通りだ。美味いから、美味しそうに見えるから人は目の前にあるものを食べるのだ。どうしてもお腹が空いているとか、栄養のためには好き嫌いを言えない場合でないなら、食物を口にする理由はそれだけで充分だ。
 例えば、宇佐美君はいつも何かを食べている。美味しいものは大好物だ。食べても食べても太らないのは、とにかく消化が上手い構造になっているんだろう。そのことに関しては、私も世間の人の真似をして「うらやましい」と言うべきなんだと思う。周囲の友達だって、みんな食べないことに理由を持っていて、それをよく口にする。太りたくないから、健康に悪そうだから。それは逆に食べること、食べたいと思うことが自然だからだ。
 でも私は、そんなこと思ってもいないから、何も返せない。私の身体はものを食べようとしないのに、どうして分かった顔ができるんだろう。私には今、宇佐美君を羨ましいと言ってみせることも、友達の前で同じ悩みを持つ人間として頷いてみせることもできない。
 だって、私の体は物を食べない。私が食べないんじゃない。私の体が食べないのだ。それが快感にさえなっている。それは生き物としておかしいのかもしれない。
 そのことを宇佐美君に正直に伝えるのはもどかしくて、私は紛らわせるようにストローの縁を噛んだ。

 ぐだぐだと宇佐美君と話して、彼の消化スピードに驚きながらとりとめもなく時間をすごすと、夜が来るのはあっという間だった。もう暗くなった夜の道を二人並んで歩く。女の子の家の目の前まで送るのが礼儀だから、と言った宇佐美君の言葉にお兄ちゃんの言いつけでしょと返すのがいつものやり取りだ。
 宇佐美君と別れて、マンションのエレベーターで一人きりになってふと自分が少し緊張していたことに気付く。おかしい。宇佐美君相手に、そんなわけない。部屋に辿りつくまでの短い間に雑念を打ち消そうとしては失敗する。しかしそんなことも、ただいま、と扉を開いた玄関に来客の姿があって一気に吹き飛んだ。見知った姿に私は思わず声を上げた。
「りかこさん!」
「あら、みいちゃん、おかえりなさい」
 大きなお尻を持ち上げてブーツを履いていたのはお兄ちゃんの彼女、理伽子さんだった。理伽子さんはいつも身体の線の見えない、ゆったりとした服を着て、巻き毛をポニーテールにしている。体型は少し太めだけれど、目鼻立ちがはっきりとしていて、あか抜けた印象の人だ。初対面の時に、ハーフのモデルみたいでかっこいいなと言ったら、どっちも当たりと返されて驚いたことがある。私くらいの歳の頃はテレビにも出ていたそうだ。
 久しぶりに理伽子さんに会えた嬉しさではしゃいでいると、やり取りに気付いたのか、黒縁のメガネをかけたお兄ちゃんの顔がぬっと出て来た。
「あれ、みい帰っていたのか」
「お兄、ただいま。りかこさん、帰るところだったの?」
 脱ぐときにドアに背を向けていたんだろう、同じ姿勢でブーツのファスナーを引き上げるのに悪戦苦闘している理伽子さんを尻目に私は訊いた。
「ちょっと寄っただけだから。勝くんに大学のお友達を紹介してもらったから、お礼を渡しに来たの」
 お兄ちゃんと理伽子さんは、どうして恋人同士なのか不思議なくらい、全然違う。まず理伽子さんの方が二つ年上だし、普通の大学で普通に勉強しているお兄ちゃんと違って、理伽子さんは海外の大学を卒業した後、日本に来た留学生への支援をしている団体で活動している。お兄ちゃんは昔サッカーをしていたのが嘘みたいに見た目もひ弱なオタクだけど、理伽子さんはアクティブでパワーが溢れている。二人がどこで知り合ったのかはちょっとした謎だ。
「お礼ってなに?」
「これこれ」
「ちょっと、私が帰ってから見てってば!」
「帰ってから聞けとは言われたが、それまで見るなとは言われてないな」
 焦って手を伸ばす理伽子さんに止められながら、お兄ちゃんが奥から取り出してみせたのは、一枚のCDだった。結構古い感じのジャケットには、一人の少女が弾けた笑顔を見せている。
「……あれ、これってりかこさん?」
「そうだ。青柳リカ期待のファーストシングル〝恋する少女リカ〟、レアものだぞ」
「ちょっと、何言ってるの!」
 恥ずかしがってかよく聞き取れない悲鳴を上げて――たぶん英語のスラングだと思う――理伽子さんは悶絶した。中途半端にしか履けていないブーツの上にそのまま座り込む。
 ファンシーな衣装でジャンプしている姿は、今の理伽子さんとはずいぶん違っていた。手足がすらりと伸びているし、私と同い年くらいに見えるけれど、嫉妬しそうなくらいに可愛らしさを前面に出している。曲名と名前が大きくポップ体で書かれているのはちょっとダサいけれど、中心の愛くるしい少女は今私が見ても美少女と言って間違いなかった。
「みいは知らないだろうが、俺らの世代にとっては一種のアイドル、神だったからな」
 理伽子さんがテレビに出た事があるという話は聞いていたけれど、CDも出していたなんて知らなかった。青柳リカというのは理伽子さんの芸名なんだろう。本名を少しいじっただけだけれど、洋風のお人形のような彼女の雰囲気を表すのにとても合っている。
「りかこさんの芸名って、何だかあれみたいです」
「え、何?」
「ぱっと見た感じ、青酸カリみたい」
 言った途端、理伽子さんは大げさに噴出した。そんなに変なことでも言ったかなと思っているとお兄ちゃんが変な顔をしてジャケットを見つめた。
「青柳リカと青酸カリか。確かに、字面が激似」
「あはは。私の名前なのに否定できないね、確かに似てる……でも、青酸カリって」
「俺も変だとは思うが悪く思うなよ。うちの妹が言ったことだ」
「別に気にしないけど、勝くん、ここでシスコン発揮しないでよ」
「もう、お兄ったら……変なこといってごめんなさい、りかこさん」
 笑いすぎて出た涙を拭う動作をして理伽子さんはようやく立ち上がった。
「いいのいいの。ちょっと昔のこと思い出しちゃったな」
「昔?」
「なんでもないの」
 猛毒に関係ある昔ってどういうことだろうとは思ったけれど、私は深く追求できなかった。無事にブーツを履ききった理伽子さんはちょっとお兄ちゃんにからかわれながら、そのまま帰ってしまった。

 だって 綺麗な花には毒があるって 
 あなた 知ってるでしょ
 恋は似てるの スイーツみたいな
 私の気持ちに それとも私に?

 理伽子さんのCDに収められた曲は、正直とても甘すぎて、聴いているこっちも恥ずかしくなるような歌詞のものだった。お兄ちゃんによると理伽子さんが活躍していたのは主に子供向けの番組だったから、そういうのも仕方がないのかもしれない。でも私が歌えと言われたら、とてもじゃないけれど歌えない。だって、私は自分をわきまえている。恋をしていても、自分を花やお菓子に例えるような女の子にはなれないのだ。
「宇佐美君、高校卒業したらどうするの」
 でも、次に宇佐美君と会った時、私の頭の中は理伽子さんの曲みたいに期待みたいな、緊張みたいな、おかしな感じでいっぱいだった。理伽子さんの歌のせいだ。
「やっぱ大学かな……でも行けるのかな、俺」
「私に聞かれても」
 冷静に答えている逆の方で、恋する女の子になりきってしまっている私がいる。秋でも暑がってシャツの袖を捲くった腕が私のとは比べ物にならないくらい太くて、筋肉が動いているのを見る度に触れてしまいたくなる私はどこかおかしい。今日も今日とてトレーの上にはファストフードが山盛りで、話す合間に宇佐美君は柔らかい食べ物を次々と口の中に放りこんでいく。召し上がれ、いただきますの間にさえ、宇佐美君は全て掻き込んでくれるんじゃないだろうか。隣で大人しくジュースを啜る私が実は不穏なことを考えているということを、宇佐美君は知らない。
「だよな。勝さん追っかけて行きたいけど。無理だな、俺じゃ」
「なんで」
「頑張って勉強するつもりがあるなら、こんなところでジョシチューガクセイと駄弁ったりしませんよ」
 それってやる気ないだけじゃん。そんな返答が思い浮かんでも口から出てこない。不思議に思ったのか宇佐美君はこっちを向いた。ずっと見ないようにしていたのに、私は思わず宇佐美君の顔を見つめてしまう。恥ずかしい。恥ずかしいのに。
「あれ、みいちゃん、三つ編長くなったな。もう腰に届くか」
 でも、そんなところで浮ついた私の気持ちは急に冷めてくる。
届くわけないじゃない。宇佐美君は私の相手をしてくれるけれど、肝心なところには気付こうとしないし、そんなつもりで私に接する気はないようだ。それは少し、つまらないと思う。いや、少しじゃない。かなりつまらない。
「他の髪型にはしないんだ。染めたりとかさ。これもみいちゃんらしくて似合うけどな」
 宇佐美君は髪を明るい茶色に染めている。私がその頭を見上げる度、高校生になればみいちゃんにもできるよ、と言う。私はまだ、変わる気はない。自分に手を加えるつもりは、ない。一生ないかもしれないと思う。それは子供らしい潔癖と、許された反抗に対する私なりの対抗だった。別に羨ましくて見ているんじゃないってことに、宇佐美君が気付く様子はこれっぽっちもない。

 寒さが増すようになると、能天気な宇佐美君は部活が忙しいという理由で時間が取れなくなっていた。小学生の頃から使っていたマフラーを新調したのに、見せたい人が見ないのでは意味がない。宇佐美君に子どもっぽいと思われないか、背伸びしていると思われないか迷いに迷って決めたのに。
 代わりの時間は、塾の個人用のスペースで自習にあてることになった。早めに帰ってもいいのだけれど、理伽子さんとお兄ちゃんがゆっくりしていることを考えると、邪魔しちゃいそうであまりくつろげたものではない。
 授業後に鞄の中身を整理していると、さっきまで国語の講義をしていた先生が私の荷物に気付いて声をかけてきた。
「あれ、懐かしい物持っているね」
 若いけれど少し暗い印象の彼女は理伽子さんのCDに目を留めて言った。自習中に聴くものでもと思ってプレイヤーと一緒に持って来たけれど、注意されるだろうかと身構えた私の心配は、彼女の笑みに杞憂に終わった。
「先生も知っているんですか」
「私この世代だったから。それに彼女、中学で同じクラスにいたの。卒業する前の数カ月だけだったけど」
「え、そうなんですか」
「うん。この辺りの出身だよ、青柳理伽子」
 いや、青柳リカって名前でCD出しているけどね――
 先生は懐かしそうにジャケットを見て、笑みを浮かべた。真面目なだけが特徴の、塾の友達にはインケンって呼ばれている先生を私は初めて身近に感じた。
「先生、りかこさんの昔を知っているんですね」
「う、うん。少しだけだけど」
「じゃあ、りかこさんについて何か――毒に関わること、知っていませんか」
「毒? それって……」
 少し考えた後、若い彼女は突然ひらめいたとばかりに私を見つめた。そこには少し、恐怖のようなものが浮かんでいた。
「まさかあの子、何かやったんじゃないよね……」
 思いつめたような彼女の視線に、私は慌てて事情を話した。理伽子さんとの関係や、青酸カリにまつわるやり取りを説明すると、先生もようやく安心したようだった。
「私、中学ではあの子の一番近くにいたと思ってる。でもあの子について、何も知らないの」
 ちょっと待っててと言って教室から出ていった彼女は、一冊の本を持って戻って来た。さし出されたそれは、新品の文芸雑誌だった。黄色い付箋が一つ頭を覗かせている。
「これ、付箋のところ書いたの私なの。よかったら読んでみて」
 名前も覚えていない塾の講師から受け取った雑誌を、私は生返事で受け取った。ずしりと重いそれのどこに理伽子さんが関係しているのか、私には分からなかった。

 塾を終えて帰ると、玄関に女ものの靴があった。黒いハイヒールを履くような女性は、私の知っている中に一人しかいない。
「ねぇお兄、りかこさん来てる?」
「んー。おかえり。おじゃましてるよ」
 予想の通り、理伽子さんがふくよかな身体にさえないエプロンを纏い、おたまを片手に私を迎えてくれた。
「お久しぶり、りかこさん。お兄は?」
「勝くんは留守。ま、研究室の仲間と飲み会らしいんだけど。今日は私と二人で夕飯です」
 私はお兄ちゃんとマンションの一室で暮らしている。もともと普通の四人家族だったけれど、私が中学に通うようになってからは、お母さんとお父さんはそれぞれ仕事を理由にして、頻繁に家を留守にするようになった。そうすると自然とどちらも留守の日ができるようになって、それに気を良くしたお兄ちゃんが理伽子さんを連れてくるようになった。一応両親の許可も得て、理伽子さんは合い鍵も持っている。
「もう、お兄ったら。いつも自分勝手なんだから」
「確かにね。でもみいちゃんにそんなこと言われたら、あの人しょげちゃうよ。みいちゃんのこと大好きなんだから」
「嬉しくないです」
 膨れてみせると理伽子さんはあははと笑った。
「ところでみいちゃん、料理は得意?」
「いつも交替で作りますから、ある程度はできますけど」
「あたし、ハンバーグ食べたいって思って、材料調べて買って来たんだけど。普段自炊しないから一人で作るの怖いんだよね……」
「よかったら一緒に作りましょうか」
「いいの? じゃあお願い! 助けてちょうだい」

 二人で作ったハンバーグは、形は上手く纏まらなかったけれど(成形を担当したのが料理初心者の理伽子さんだったから)、それなりに美味しそうにできあがった。お兄ちゃんの分は必要ないからと二人分のハンバーグを二等分する理伽子さんを私はあわてて止めた。
「私、そんなに食べないからいいです。少しだけ、あれば充分なので」
「え、いいの。ハンバーグだよ、成長期にはお肉が必要だよ。育ちきったあたしが食べといてなんだけど」
「いいんです。いつも、こうだし」
 しばらく不満げな表情を続けた後、理伽子さんはしぶしぶといった感じでハンバーグを切り分けた。他の料理も、きっかり一人前盛り付けた理伽子さんの分と比べると、お子様ランチみたいになってしまう。
「ねえ、みいちゃんって体重どのくらい?」
「三十……五、です」
 不器用にも黙々と料理を盛り付けながら理伽子さんに問われて、私は少し憂鬱になった。理伽子さんが私の食べない分の料理を食べるつもりでいるということに気付いたのと、多分これから説教が始まるよなあという雰囲気を感じ取ったからだ。
「身長は?」
「百五十です」
 隣に並んだ理伽子さんの腕は私よりも二回りくらい太くて柔らかそうだ。もしこんなデリケートな質問をしてきたのが他の人だったら、たとえお兄ちゃんや宇佐美君でも、私は正直に答えない。もしそれが同級生の、理伽子さんみたいな体型の女の子だったら……絶対に正直に答えたりはしない。どんな反応が返ってくるのか、分かるからだ。
「みいちゃんがさ、ただ太りたくないとか的外れなことを言って食べないのなら、私は怒るけれど。大人として、怒りたいと思うけれど。でもあなた、そんなんじゃないでしょ」
 料理を食卓に並べて、理伽子さんは席に着いた。私もつられて席に着く。
「食べたいって、あまり思わないんです、私。あの、無理しているんじゃなくて。本当に、そうなんです」
「それならいいけど」
 全然どうでもよくなさそうな感じで、理伽子さんは私の顔をちらりと覗きこんだ。こんな変なタイミングで言うのもおかしいけど、と前置きして彼女はいただきますと手を合わせて、私もそれに倣った。
「昔話をさせてほしいんだけど。昔テレビに出てたって話をしたよね。簡単にいうと教育番組で――平日の夕方にやっているじゃない、あれでメインのメンバーとして色々していたのね。番組自体ではタレントみたいな扱いだったけど、お芝居とか歌とかダンスとか、それっぽいことはさせてもらえたの。ああいうのに出るくらいだから、周りもなんだかんだで私の芸能界入りを望んでいたみたいで。私もそういうのを十年くらいやって、こうやって生きていくんだなって思い始めた時期にさ、大変なことが起きたんだよね」
 私の食事量の三倍くらいはある料理を口に運びながら、理伽子さんは食事と話を一度に始めた。その姿は宇佐美君と似ていたけれど、二人の体型を考えれば、理伽子さんの方の受容と供給がアンバランスであることは見てとれた。
「母親が、マネージャーとデキてたの」
「えっ……」
 何でもない話をするように、理伽子さんは話を続ける。私も恐る恐るハンバーグを口に運ぶけれど、あまり美味しく感じられない。もともとお肉が好きじゃないっていうのもあるけれど、理伽子さんのショッキングな身の上話を聞かされては食べれるものも食べれない。
「うちって母親がオーストラリア人なんだけどね。母親がそんなことになってえらいこっちゃでね……仕事はいつも母親が付いてやっていたから、このまま続けていくわけにもいかなくて。番組も卒業することになって、今じゃ若いうちから脚光を浴びるアイドルも少なくないけど、私は子ども向けの存在だったからそんなに目立つこともなくて、そのままフェードアウト。でも、それから普通の中学校に編入したらそれはそれで針のむしろだった。私がずっと続けていたことも、周りは仕事だなんて思ってないから。そこで私、何を考えたか。英語の、ネイティブスピーカーの先生を落としにかかったのよ。さすがに時間もかかったし、高校卒業後に付き合いだしたけど、それでもこっちは未成年で向こうは離婚しちゃったから同じことか。それでね、そのくらいの頃から、食べることを止められなくなったの」
 だから私たち、仲間みたいなものね。
 話しては食べて、食べては話して……これを繰り返すうちに理伽子さんの前の皿には何も残らなくなった。これが彼女のいつもの食事風景だということに私はようやく気付いた。
「もともと太りやすいってのもあったけれど、あまりにもぶくぶく体型が変わっちゃうから周りはみんなびっくりしてね。落ち着いたら将来うちの会社で働かないかって誘ってくれたお仕事の関係者もいたんだけど、そういうのもあっという間になくなって、私は普通の太っている女の子になったってわけ。テレビ以外で自分のやれることも見つかったし、これでいっかって思った時に、勝くんと知り合ったの」
 理伽子さんがまるで機関車のような勢いで一食を平らげて、箸を下ろしたときでさえ、私のお子様ランチは半分も終わって無かった。
 それでね、これは、まだもっと先に言おうと思っていたことなんだけど。
「でもね、私、勝くんと別れます」
 ちょっとだけ笑いながら、理伽子さんは話を続けた。まるでこれがただのお喋りみたいに。
「正しく言うと、あの人捨てて、オーストラリアに行くことにしたの。今の話の、昔付き合っていた外国人の先生……うちの母親と同じオーストラリアの出身で、最近はたまに連絡取り合うだけだったんだけれど。彼に呼ばれたから、向こうに行くことに決めたの。勝くんにはまだ何も言ってない」
 彼女の視線が皿の上を彷徨って――まるでまだ食べる物が残っていないか探しているようだった――そのまま食卓越しに私へと辿りついた。
「どうして」
 今食べた物を吐き出すように、苦しい声で私は訊ねた。
「これが私の、毒だから」
 やせっぽっちの、面白みがなくて、子どものままの私の身体を上書きするみたいに、理伽子さんの視線が私を見つめる。忙しく役目を果たしていた口が、一瞬無防備に動きを止めたのを私は見逃さなかった。
「勝くんには感謝してる……もちろん、みいちゃんにも。だから私、みいちゃんにお礼がしたいの」
 何かできることはない? と訊いてくる理伽子さんに、私は何と返せばいいのか分からなかった。

 十二月になって、私の周りは少しずつ変化を見せていた。
 お兄ちゃんは卒業研究で、宇佐美君は部活で、理伽子さんはお仕事でそれぞれが忙しいと私に告げていた。三人が各々の道の分岐点に立っているということに、私はようやく気が付いた。お兄ちゃんは来春からの就職先に入社前の宿題を渡されているし、宇佐美君からは卒業後の進路を聞き出せずにいるし、理伽子さんはまだあの話を実行に移してはいないけれど、その時を窺っているみたいだった。
 塾の自習室で、私は隠れてあの文芸雑誌を読んだ。一度読んだ時はどういうことか分からなかったけれど、何度も読んでいくうちに、それが理伽子さんのことを書いた小説だということに気付いたのだ。名前も覚えていない塾の講師は、私に何も言ってはこない。私はただひたすらに、文字の中の、ただ見つめる少女と見つめられる少女の姿を想像した。
 みんな、みんな変わっていく。呑気なただの中学生の私だって、何かしなくちゃいけないのだ。
 忙しい宇佐美君と会うアポを取って、私は理伽子さんに一つお願いをした。やるべきことをやらずにいる私ができる、ただ一つの願望があった。

 十二月も下旬になって、街は一気に華やいだ。もう二ヶ月くらい前からショーウィンドウはこの時を待っていたし、いろんな場所がこれでもかとテンションを上げているのが分かる。これがクライマックス。今日が、明日が、明後日が。それ以降は許されない、お祭り騒ぎだ。もちろんそれは私だって同じ。だって今日は……コートもおろしたてだし。
 久しぶりの土曜のファストフード店は、どこも人が多くて大変な有様になっていた。クリスマス前にハンバーガーを食べずにはいられないって人間がこんなに多いとは思わなかった。私は少し尻込みしてしまう。いつもの席どころか、空いている席もないかもしれない。外から見たって分かる。でも、いつも私が待っている席に宇佐美君の姿を見つけて、私は自分の目を疑った。やっぱり、あれは宇佐美君だろう。今日は何も予定がなかったのか、暫く見ていない私服で佇む姿は、何だかとっても特別に見えた。
 彼から目を逸らさずに急いで入口に向かう。レジで並ぶ人は多くても、私は構わず奥へと進んでいった。階段を駆け上がる。もうなんだっていいのだ。何だろう、この、無防備なのに勇気でいっぱいで、何でもできそうな気持ちは。窓際の席に近づいて初めて、宇佐美君が振り返って私の方を見た。ふわりと羽が地面に着地するような、それが不釣り合いというならゴムボールが落ちた感じと表現してもいいけれど、そんな柔らかい顔で彼が微笑んだ。
「よ、久しぶり」
「うん……お久しぶり」
 ただの短い挨拶でも、私の心は大きく弾んだ。好きな人の笑顔以上に大きな宝物がこの世にあるはずはない……そうだ、私は宇佐美君が好きなんだ。恋は、自覚すると、耐えられないほど甘い感覚を私にもたらして、私を誰にも負けない女の子にした。
 私が理伽子さんにお願いしたこと、それはたった一つ私が望んでいること、宇佐美君に向き合うために背中を押してもらうことだった。それを聞いた彼女は少し笑って、「ちょっとだけだよ、私ができることは」と言いながら、私が生まれ変わることに手を貸してくれた。
「食べることに興味がないって、みいちゃん言っていたけれど」
 私の髪の毛の一房を器用に編み込みながら、理伽子さんは歌うように言った。料理はできないのに、こういうことができる理伽子さんは、今だけとても頼もしく思えてくる。
「私は、食事と恋愛は似ているって思うよ」
「そうなの?」
「生きている上で欠かせないことでしょ。だからかな、とても楽しいことだしね」
 編みあがった両サイドの髪を後ろに持ってきて、赤いリボンの付いた小さなゴムで結ぶ。他の髪の毛は下ろしたままだけれど、理伽子さんが色々な器具で挟んだり持ちあげたりしたおかげでいつもより断然ふわふわだ。内緒でお母さんの鏡台の前に座る私は、理伽子さんの手練手管に感心するしかない。
「ねえ、りかこさん」
「何? 髪引っ張るの痛かった?」
「そうじゃなくて」
 楽しそうに恋愛を語る理伽子さんは、誰との恋愛をとても楽しいって感じたんだろう。それはきっと、彼女が会いに行こうと考えている相手ではない。多分、そんな人よりもっとましな人がいるはずだ……でも私には何も言いだせなかった。
 理伽子さんに手伝ってもらってできあがった私は、もちろんいつもの私ではなかった。私が頑なに拒んでいた、年頃の女の子の格好をした私がそこにいた。三つ編以外の髪型も、制服よりずっと短いスカートも、スニーカーでもサンダルでもない靴も、少しリップクリームを塗った唇も。私は自分から望むことがなかったのに……いつもの貧相な私とは違う、若い女でしかないのに、どこまでも強い眼差しの私がここにいる。
「私たちは、皆と同じ、普通のまっとうな道を歩いているわけではないけれど。自分が生きやすいように生きているだけで悪いことはこれっぽっちもないけれど。でも、だからって、変化しないのはもったいないよ」
 そうだ。私は変わったんだ。今でも沢山食べたいって気持ちにはなれないけれど、確実に欲張りにはなった。自分じゃない他人に対して、欲を持つことを学んだんだ。それが、可愛らしい初恋のときめきなのか、不埒な欲望なのか、自分でも分からないけれど、私は強い気持ちに突き動かされて鏡を見つめるだけ。そして、誰でもない、宇佐美君だけを。
 私の格好がいつもと違うことに対して、宇佐美君が見せたのは表情だけの反応。驚き、そして頬笑み。張りきっていることが伝わってしまって、とてつもなく恥ずかしい。でも、宇佐美君の声がからかいの響きに変わることはなかった。
「みいちゃん、髪下ろしても可愛いな」
 それは私が望んでいた言葉に一番近いものだった。好きな人に褒められて、喜ばないわけがない。そう、宇佐美君が、私の好きな人。一言でいいから、宇佐美君に思いを伝えるために私はここに来たのだ。
「ところで、この後なんだけど」
「う、うん」
 また一緒にお喋り? それとも街を歩く? せっかくだからロマンチックなことを期待してもいいよね? だって今、可愛いって言ってくれたでしょ。どのタイミングで、どこで伝えればいいんだろう。私の思いを。
 自分でもよくわからない興奮に、頭が沸騰しはじめた私の前で、宇佐美君は困ったように笑った。
「俺、この後ちょっと用があって」
 え? と頭の上に疑問符を浮かべている間に、宇佐美君は立ち上がってしまった。その手は小さな荷物を手にしている。それがどういう仕草なのか、私にだって分かる。こいつ、帰る気だ。
「ごめんな。あと、たてこんでて暫く会えそうにないんだ。せっかく誘ってもらったのに、ほんっとごめん」
 思わず笑顔のままで固まった私の頭に大きな手のひらがまわされて、そのまますぽっと宇佐美君の胸に抱き込まれた。なんなのこれは。意味がわからない。私の動揺を知る由もなく、宇佐美君はすばやく私を解放して、小さな包みを私に押しやった。
「これ、今日の詫びっていうか……クリスマスだからさ」
 ファンシーなピンクの包みを、私は黙って受け取った。じゃ、と告げて宇佐美君は風のように去ってしまった。私は一人、客でいっぱいのファストフード店に残されただけ。

 失敗した。間違えてしまった。私は宇佐美君の前で、あんな姿を見せるべきじゃなかった。舐められた子供のままで、そのままでよかったのだ。
 敗北だ。敗北だ。まだ残機はあるが、敗北だ。闘志はない。生意気な中学生のままでいることはもう、できない。
 帰ってすぐ、私を迎えたお兄ちゃんは泣きべそをかいている私を見て、「宇佐美あいつ!」と叫んだのを一緒にいた理伽子さんに止められた。今日はお母さんもお父さんも家にいるし、二人でこれからどこかに出かける予定だったんだろう。まだ喚いているお兄ちゃんを放っておいて、私は理伽子さんを部屋に連れこんだ。
 走ってきたから理伽子さんにしてもらったおめかしは今ぐちゃぐちゃになっているかもしれない。それでも、私は理伽子さんに自分を見てもらいたい気持ちでいっぱいだった。
「今日はありがとう、りかこさん」
「よかったのかな、私。役に立てたかな」
 偉そうなことを言ってごめんね。そう言って抱き込まれた理伽子さんの胸の中は、コートごしでもとても柔らかくて、温かかった。私の姿に、お兄ちゃんだけじゃない、理伽子さんだって動揺しているみたいだった。
「ダメだったかもしれない。だから、りかこさん。私、もう一つお願いがあるの」
 今、私の中には自分自身の恋へ掛けたエネルギーが爆発しそうなほどぐるぐるしていて、新たな目標を理伽子さんに標準を合わせていた。私に勇気をくれた理伽子さんが、私よりも不幸であっていいはずがなかった。
「お兄と別れないで。りかこさんがお兄のこと嫌いなら止めないよ。でもりかこさん、そうじゃないんでしょ」
 私はあの小説を思い出した。あそこに書かれているのはきっと、中学生の時の理伽子さんだろう。私と歳のかわらない、ちっぽけな女の子だった理伽子さん。それなのにいろんなものを背負って、それでも強くなるって心に決めていた理伽子さん。
「私とお兄で足りないなら、もう一人いる。りかこさんのことを、好きな人が」
「本当に?」
「本当だよ。多分今でも、りかこさんのこと大好きだと思う」
 りかこさんと私は、抱き合った格好のまま、泣き崩れた。私は今更ながら宇佐美君に嫌われたかもしれないという恐怖と、りかこさんの温かいぬくもりに安心して泣いて、りかこさんはもらい泣きが本格的に泣きのつぼに入ったみたいで、異国の血が騒いだのか、私が聞いたことない派手な泣き声を上げた。
 またもや騒ぎを聞きつけたお兄ちゃんが部屋に突入してくるまで、私たちはひしと抱き合い続けた。こんなに温かい身体を持っている理伽子さんは、きっと手足のすらりとした頃の理伽子さんより何倍も幸せに違いない、と思わずにはいられなかった。

 それから数カ月、冬が本格的に寒くなって、少し落ち着きを見せるまでの間に私は少し変わった。
 食べる量が増えて、体重が少し増えた。これは、理伽子さんが私のためにスイーツの食べ歩きを計画したせいかもしれないけど。食べることに興味を持ち始めた私の姿に安心したのは、理伽子さんだけじゃなくて、たまにしか会えないお母さんやお父さんもどこか喜んでいた。
 私はそのお礼として、塾の先生と理伽子さんの再会をセッティングした。あの小説を読む限りでは、理伽子さんは今よりずっとスマートでクールなタイプの女の子だったようだけれど、先生は今の理伽子さんだって愛してくれるに違いない。私の読みは合っていたのか、デートの誘いを振られたお兄ちゃんが部屋にいることが多くなった。
 宇佐美君とは、あれから満足に会えてない。クリスマスの一件で余計な勘ぐりをしたお兄ちゃんが、宇佐美君と私の通信手段を完全にシャットアウトしてしまったからだ。「みいの相手は俺で充分。ちょうど手が空いてるしな!」と強がっているけれど、やっぱり寂しいんだろう。
 宇佐美君に対する思いが少し諦めに変わってきた頃、私はあの時貰ったクリスマスプレゼントをこっそりと開けた。そこに入っていたのは、ヘアピンのセットだった。それぞれにリボンで飾られたカトラリーのモチーフがついている。それが意味することを考えて、宇佐美君に恐る恐る訊いてみたいような気がしたけれど、携帯電話も握られている私はどうしようもなくて、不貞腐れてお兄ちゃんを恨むしかなかった。
 ちなみに、理伽子さんの渡航の話は完全に無くなってしまった。「もっと素敵な人がいたからね」と言って理伽子さんが笑ってくれるのは嬉しいけれど、自分の身に近づいていた危機に全く気付かずに呑気なお兄ちゃんは、やっぱり見ていて腹が立つ。
 そろそろ泣いて落としてもいい頃かな、と思い始めた頃に、お兄ちゃんが携帯電話を片手に私の部屋にやってきた。
「あのさ、宇佐美が御蔭様で大学受かりましたーって」
「御蔭様って」
 どういうこと。大学には行かないんじゃなかったの。何様のつもり、お兄ちゃんに皮肉が言えるわけがない。それは宇佐美君にしても同じこと。
「あいつ塾いくつ掛け持ちしてたんだっけ? 隙間キューケーあざっした、ってさ」
「塾? 大学って」
 なに、そんなの聞いてない。
「馬鹿だからやめろって言ったんだけどな、春から俺と同じ大学に進学するって」
 ホント馬鹿だな、俺今度卒業するのに。就職先までついてくるつもりかよ。お兄ちゃんの声に、私は泣きたいような笑いたいような、おかしな感じで頷いた。私と宇佐美君を会わせてくれなかったお兄ちゃんの思いやりが隠していたものに、今やっと気付いたから。
 宇佐美君に会ったら、今度こそ言おう。私を全部、食べてくださいって。軽い軽い女の子一人なら、きっと短時間で消化できるはずだ。
 宇佐美から電話、お前に替われって。ただし生意気なこと言ってきたら報告しろ。そんなお兄ちゃんからの声を背に、私は涙を拭った。

〈了〉



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Posted by 金沢大学文芸部 at 12:00│Comments(0)作品紹介
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