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2014年08月05日

白昼無  佐久田 尚

 話し声、笑い声、足音、よくわからない叫び声。午後四時丁度、喧騒に満ちた五限直後の校舎。校庭では早くも運動部が走りまわっている。テレポーテーションでも使ったのだろう。混雑した昇降口を抜け、校舎を出ると、途端、西日が照り付ける。眩しさに僕は思わず目を細める。十月の西の空は赤く染まり、東の空にはまだ澄んだ青さが残っている。自転車置き場の人だかりを横目に見ながら校門を出る。夕日の降り注ぐ背中が暖かい。携帯とにらめっこをする女子生徒を乗せた自動車、騒がしい自転車の一団、頼もしい掛け声を響き渡らせて駆けていくラグビー部が次々に僕を追い越して行く。そんなせわしなさに負けないように僕は、いつも通りのんびり歩く。

 衣替えを終えた身には少し暑いぐらいの陽気の中にも秋の気配がちらつく。既にほとんどの葉を黄色に染めた並木、濃緑の葉の中で真っ赤な実が目立つ垣根、元気よく吠える白い大きな犬、随所にヒビの入ったブロック塀、どれもこれも見慣れた景色。つい先日架け替え工事が終わった橋を渡るときは、少しばかり新鮮な気分。黙って歩く二人の小学生を追い越し、前と後ろに幼児を乗せた自転車に追い抜かれ、水のない用水路に落ちたマスコット人形に目を引かれ、カラスが行儀よく並んだ電線の下は気持ち足を速めて通る。些細なあれこれにいちいち意識を向けていないと退屈すぎて辞めたくなりそうな、もはや何が目的なのかあやふやとなった「帰宅」という名のルーティンワーク。

「ただいま」
 と言ってもおかえりの「お」の字もない。たった今帰ってきた僕以外誰もいないのだから当たり前だ。靴をおざなりに脱いで、鍵を玄関の棚のいつもの場所にしまう。鞄をリビングに放り、洗面所で手を洗い、うがいをして、再びリビングに戻って鞄を回収し、二階の自分の部屋に向かう。いつものように。
 部屋に入って、鞄を投げ出し、ベッドに腰を掛けて、学生服の上着を脱ぎ、立ち上がって、それをハンガーにかける。そして服を着替える。そこまでも、いつも通り。それはまるで前日の行動のトレース。シャツのボタンをはずしながらふと目に入ったもの。目を背けたくなるようなそれに、僕は意識を向ける。机。ごく一般的な、木製の勉強机。そして、その上に積み上げられた、教科書、小説、漫画、文具、その他雑貨の類。惨状。そう形容して何ら過剰でない、そのままでは一切本来の役割を果たすことのできない机。
 それらに目をやったまま、僕は服を着替えた。
 そして、部屋で一人、つぶやいた。
「片付けるか」
 たまには、いいだろう、そういうのも。
 椅子に座って、片付けるべき対象、その一番表層にある一冊の教科書を手に取った。物理Ⅰ。最後に使ったのがいつだったかわからないようなものが何でこんなところにあるのか、わからない。きっとあまりに使わな過ぎたために怨念か何かが宿って山の底から這い出てきたのだろう。等速直線運動、ドップラー効果、熱力学第二法則、名前だけが記憶の彼方からふと顔を覗かせる。素性のわからない彼らのことを思い出そうか出すまいかと考えながら頁を繰る。ふと僕の頭のなかに透明な雲のようなものが湧き起こる。僕の意識は徐々にそれに侵されて、瞼が落ちて、暗闇、昼下がりの眠気に屈服させられるように、脱力、滑り落ちる物理Ⅰ、やがて……。

 そこには、何もなかった。椅子も机もベッドも本棚も、僕の部屋にあるべきものもあるはずのないものも、何もなかった。何もないような気がした。そこにはただ何もない空間が広がり、後ろにもまた同じように何もない。もちろん、僕の上にも下にも、何もない。じゃあ僕はどこに立ってるんだって? 知らない、そんなこと。意識だけがさまよっているような、でもその意識は肉体をしっかりと認識しているような、全てが曖昧と言えば曖昧だけれど、何も疑うことはないと思えばそんな気もしてくる。
 僕がすっかり困っていると、困っているつもりなだけでその実まったく困っていない気もするけれど、突然、笑い声のようなものが聞こえてきた。他人を小ばかにしたところのある、楽しくて仕方がないというような笑い声。けれど、見回してもやはり何もない。誰もいない。いや、僕は本当に見回したのだろうか? それさえもわからない。
「こっち。こっちだって」
 再び、声が聞こえた。今度は笑い声ではなく、誰かが僕を呼んでいる。快活な少年のようなよく通る高い声は続ける。
「どこ向いてんだよ、こっちだって」
 声は言うけれど、僕は自分がどこを向いているのかもわからない。
 とにかく僕は声に問いかけようとした。いつものように、家族と会話をするように、友人とあいさつを交わすように、自然と、何かを言おうとした。でも、こんな時に限って何も言えなかった。どうすればいいのか、いままで自分がどうやってしゃべっていたのか、全くわからなくなってしまった。
「どうした。大丈夫か?」
 これっぽっちも心配の色のない声が言う。
 どうしたって……大丈夫も何「も」
「ん?」
 声が、出た? 僕の声?
「いや……え、と」
 しゃべれた。普通に、何の違和感もなく。
「まあ、そりゃあそうか」
「え? 何が?」
「ああ、こっちの話だから」
「僕は……何で……」
「何で?」
「何で上手く声が出せなかったのか? なんでこんなところにいるのか? それともそれ以外の何か?」
 よくしゃべる声の主の姿はどこにも見えない。
「ええと、どっちも」
「じゃあ、ちょっと待って。今からそっち行くから」
 声は言った。
「やあやあやあやあ」
 呑気なあいさつと共に僕の目の前に現れたのは、一人の少年、のような少女のような姿かたちの誰か、だった。突然目の前に人間――だかなんだかわからないけれどそう見えるものが現れ、僕は息をのんだ。
 その何か、誰かは言った。
「何黙ってんの」
「え? ……いや」
「何だよ、言いたいことがあるんならはっきり言えよ。大きな声で。」
 彼、もしくは彼女は叱るような口調でそう言って、しかし僕のことばを待つことなく続けた。
「まあね、別に私はあなたから聞きたいことは何もないから、別にあなたがしゃべらなくても何の問題もないんだけど……そんで、とりあえず説明しておくと、ここでは一つ大切なことがあって、ルール、とでも言えばいいんかね、とにかく、これを頭に入れておいて欲しいんだけど……」
 彼はいったんことばを区切り、「ニヤッ」と音が聞こえてきそうな笑みを浮かべて、言う。
「ここでは、全てがあなたの思い通りになる」
「え?」僕が思わず声を漏らすと、彼はさらに楽しそうな顔になって続ける。
「だからね、あなたがしゃべろうと思えば、普段通りことばを発せる。いまあなたに起きたのは、それだけのこと」
「そりゃあもう何でもいいよ、羽をはやして空を飛んだって、口から火吹いたって、海も山もつくれる」
「はあ……」
「何なんだあなたはさっきから、はあだのええだの、ちゃんと人の話を聞いてんのかい」
「まあ……はい」
「ならいいけど」
「あの」
「うん」
「あなたは、どなた?」
「あーはいはいはい、それが気になるわけね。なるほどなるほど」
「はい、それで」
「まあ私が何なのかっていうとちょっと説明が面倒というかできないこともないんだけどでも正確には無理というか……まあ簡単に? あなたにわかりやすいように言うならば? 私は神みたいなものだね」
「かみ?」。
「そう。よくやるでしょあなた方は、神様仏様とかって。つってもキリストとかお釈迦とかそういうのとは違って、どっちかっていうと八百万云々の方に近いんだけど、そんでそれともまたちょっと違うから一緒と思われるといろいろ困るんだけど、そんな感じのものだと思ってくれればいいよ」
「ええと、あなたは、神様」
「うん、まあ多分あなたが今使った「神様」っていうのとは違うんだけど」
「え、じゃあ……何?」
「いや、だからね、私は別に神様ではないんだよ。少なくともあなた、あなたたちは私のことを神様と呼んだことはないし、私は自分のことを神様だとは思ってない。だけどあなたたちのことばで強いて私のことを呼ぶとしたらよ、まあ「神様」っていうのが当たらずとも遠からずかなあって具合なわけ。アンダスタン?」
「はあ、何となくは」
 ずいぶんとフランクな神様、ということにしておこう。混乱しっぱなしの頭でこれ以上ややこしいことを考えられる気がしない。
「それで、僕はどうしてここに、というかここはどこなんですか?」
「どこって言われてもねえ……別にここはどこでもないよ」
「いや、でも」
「あなたは自分からここへ来て、そんでここはどこでもない、以上」
「そんなこと言われても」
「まあさ、あなたが納得しようとしまいと、あんたはここにいて、ここはそういところなのよ」
「そんで、何かないのかい、願い事の一つや二つ。ちょちょいと叶うよ、ここなら。あ、言っておくと別に私が叶えるわけじゃないから、誤解しないでおくれ」
「ううん……」
「おいおいおい、ないってことはないだろう、どんなちっぽけなことでもいいんだよ。三つまでなんてケチな決まりもないからさ」
「いや、でも、願い事って言っても」
 願い事、か。なんだろう。
 何が欲しい?
 何を望む?
 僕は。
 こんな状況で、そんなことを考えろと言ったって、そもそも……ああ、そうか。
「ええと……それじゃあ……元の世界に戻りたい、とか?」よく考えたら、それですべては解決するんじゃないか。
「はあ、まあ、あなたがそれでいいんなら」
 神様は拍子抜けした顔で僕を見る。よく見ると彼の眼は不思議な色をしている。今となっては、どうでもいいけれど。
 《元の世界》か。退屈で大切な僕の日常。


 気付いたら、僕はそこにいた。目をつむったつもりもないのに、視界の中の世界はすっかり変わっていた。僕は椅子に座っていて、目の前には乱雑にものが積み上げられた机。見慣れた景色。
 僕は本当に、思い通り《元の世界》に戻ってきたのだ。
 そこにさきほどの神様の姿はない。
 神様――ではないって言っていたけれど――はきっと、あの変な世界に今もいるのだろう。そしてきっと、今もまた、僕みたいにあの世界に迷い込む人を待っているのだろう。それとも、もうすでにどこかほかの世界に行ってしまったのだろうか。そんな気もする。もしくは、そもそもあの神様もあの世界も僕の夢の中の話だったのかもしれない。でも、ぼんやりとだけれどそうではない気はする。そして僕は、神様と話したことも、神様の声も、最後に見たことばにできない目の色も、あの世界での出来事を、そのうちすっかり忘れてしまうのだろう。
 まあ、今もあの世界でいったいなにがどうなっていたのかよくわかっていないし、あまり残念だともさびしいとも思わない。ちょっともやもやするところはあるけれど。強がりでも、諦めでもなく、そういうものなんだろうなあ、とだけ思う。そしてそれをなぜだかすんなり受け入れている自分がいる。いや、でも、それにしても、本当にあれはなんだったんだろう。まあ、何はともあれ、僕はここに、この僕の世界にちゃんといる。
 僕は椅子から立ち上がる。何か固いものを踏んで足を上げる。見下ろせば、物理Ⅰだ。


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